Chaos金太郎

移住10年目。新潟県柏崎の山間の集落を存続させるため活動中。

*

移住後に訪れた人生のスランプ、支えてくれた人々

   

昨日までの連載を読むと順風満帆に来てる感じがありますが、スランプというか人生の底みたいな時期もありました。

博物館で働いた経緯

柏崎ふるさと人物館と柏崎市立博物館で働いていた時があります。塾バイトの同僚が、当時の博物館の館長と知り合いで「会ってみる?」と紹介してくれたのです。

お会いして移住の経緯、やろうとしていることをお話しすると…

「柏崎ふるさと人物館の臨時職員をしないか?半年間の任期だが、本もたくさん読めるし資料もたくさんある。人とのつながりができる。柏崎のことを知るにはもってこいだ」

仕事をくださるとのこと!すぐお願いしますと返事をしました!

学芸員に憧れる

柏崎ふるさと人物館で働き始めると…超おもしろい。民俗学が大好きな私にとっては日々垂涎もの。ちょうど企画展準備中だったこともあり、調査に連れて行ってもらえる、資料が見られる、話が聞ける、なんでもござれ。

その民俗フィーバーな日々を残したくて一眼レフを買いました。

2016-01-19 21 55 31

館長をはじめ、ほかの学芸員、職員さんの話が面白くて面白くて…。その当時の「人生、キテるな感」といったら、なかったと思います。

学芸員資格と神職資格の同時取得

そうなるとできればこのまま、正社員になりたいなと思うようになります。博物館で学芸員として働くには「学芸員資格」が必要になります。取りましたよね、通信の大学に2年通って。

ちょうど、神職資格の取得と時期がかぶりまして。國學院大學で神職の資格を取りながら、通信の大学で学芸員資格を取るということに。両方のレポートを同じ時期に提出するという、鬼スケジュールでした。

そんな風にして取った資格でしたが、学芸員の仕事って、採用人数が極端に少ないんです。「学芸員になりたい!」っていう人は、都落ちの覚悟で全国で求人を探すそうです。その実情を知っていても、とめられなかったですね。

臨時職員として採用、そして…

柏崎ふるさと人物館の後に、今度は柏崎市立博物館で臨時職員として雇ってくれることになりました。

しかし、その時から急に心の調子がおかしくなりました。せっかく学芸員資格を取り、博物館で働き始めることができたのにもかかわらず、とても無気力になってしまったのです。仕事は以前とかわらず、面白いことがたくさんあります。環境という点では、すばらしいものでした。

当時は移住してから2~3年たってました。柏崎の冬を何回か体験する中で、晴れ間のない曇りが多い新潟特有の気候に、やられたのかもしれません。神職、学芸員、二つの資格を同時に取るために無理をしたのがたたったとも考えられます。原因はわかりませんけれど。

臨時職員として働かせてもらっている間に、いろいろと博物館の仕事を覚え、勉強をすべきでした。しかし、仕事を終えて帰ってきても、何もする気になれなかったのです。酒を飲んで寝てを繰り返し。なんの努力もしなかった時期です。移住後、初の挫折、暗く重苦しい日々。

当時の日記を読むと悲痛な叫びが書いてあります。こんなんじゃダメだ、頑張らなきゃ!と思う反面、元気の出ない心。「よし、元気出た!もう大丈夫!」と言ったっきり翌日から日記の記載が途切れたり…。めちゃくちゃでした。

館報に掲載

そんなとき、博物館の学芸員の方に「館報に文章を載せないか?」と声をかけてもらいます。柏崎市立博物館では定期的に、館の活動や調査の報告をまとめた「館報」を出しており、そこに文章を載せないか、とのこと。

文章の内容は、大学の卒業論文を加筆修正したもの。再調査の聞き取りをしたり、卒論より細かな検証を加えて書くことになりました。

「これはチャンスだ」と思いました。元気のない心に、希望が出てきた感じがしました。

2016-02-17 21 50 21

支えてくれた人々

たくさんアドバイスをもらいながら、館報の文書を書き終えたとき、達成感がありました。少し前に進めたように思います。文章を書くことの面白さにも目覚め、今のブログに大きな影響を与えています。

当時、はたから見ると私はやる気のないやつに見えたはずです。事実なにもしていなかったのですから。それでも博物館の方々は暖かく見守ってくれました。

博物館で教わったこと。展示の方法や文章の書き方、聞き取り調査の仕方、ものの考え方。館長をはじめ、職員さんたちが教えてくれたことは今の自分の基礎になっています。

底辺のような時期を乗り越えることができたのは、支えてくれた人たちがいたからです。あの時、館報の話がなかったら。暖かく見守ってもらえなかったら…。今の自分はないと思います。感謝してもしきれません。

 

 

 

 - 移住